ちょっと高いのですが、元町の裏通りは柴犬くんがドアの前にいるお店のART SEAに、気になるアクセがありました。通りかかるたびに、うーん、と立ち寄っては価格と欲しいの間で迷って諦めていたところ。

店内は高級で高めな作家の手作り作品が多々並んでいます。品が良くて、壊れやすそうで、価格は結婚式のお祝いくらいでなければ用途を思いつけない程。しかしその分、絵柄も形もちょっと無いオリジナルで、作り手が大切に作った感が伝わってくる。もし私が手に入れたらとても大事にしたくなる、心を舞わせてくれる作品が多いです。

なんとか手の届く価格で、夜の街という小さなお皿を誕生日のお祝いに買いました。作家が芸を学んだミラノの街だそうです。夜の帳がしっかり感じられる黒の上に描かれた、メルヘンチックな白い線の図柄は、その下で夜の街を楽しむ人々の物語が想像できて、音楽まで聞こえてきそうで、想像力を広げさせてくれる一品です。

相手の人や家の雰囲気にとてもぴったりはまると思えたら、お祝いものに、迷わず足を向けるお店です。


と、つむぎオニオニは言っていました。
柴犬のリュウ君は、人間にはとっても優しいのですが、ワン子同士だとたまーにちょっとということなので、ボクが通りかかったときには仲良くしてもらえるかは不明です。
ちっこすぎて相手にしてもらえないかな。色が同じだから仲間だと思ってもらえるかなー。
グレン・グールドの話をしましょう。
tsumgiおにおには、この人の曲に触れてから、
ピアノの一音一音がどれほど深く耳に届くようになったか。

いかにクラシックも自由な音楽なんだということに気付けたか。

いかに気持ちを混入した歌を聴くのと同じように、彼の曲を楽しく聴いているか。

グールドの曲は、目を閉じて聴くのだそうです。
思いの丈が、よく伝わるから。
気持ちの籠った箇所や、くるぞ、と溜める一瞬の間まで、伝わるから。

そして、できればイヤホンで聴くのだそうです。
没入する程の音量で聴くと、彼の声がちゃんと聞けるそうです。
歌いながら弾くというのは決して簡単なことではないけれど、
歌いながら弾くグールドの方が、黙って弾くグールドよりいい感じなんだろうなと思うそうです。

彼の長い指は、一音一音を無駄にしません。
一音一音に、意味があるって、tumgiおにおに初めて気付いたそうです。
そうして彼の真似をして一音一音を大事にしてピアノを弾いていると、
ごまかさない弾き方が出来るそうです。

彼の弾き方は自由です。
それでもモーツァルトもベートーヴェンも、いわんやバッハも、
ちゃんと解釈して弾いているのだろうと、tsumgiおにおにはいつも思います。
何度同じ曲を聴いていても、その曲に彼の哲学を聴くんだそうです。
こんな風に、ピアニストは意志を持ってある曲ある曲を弾いているのだと、
はじめて気付いたそうです。

クラシックは誰が弾いても同じ、癖の違い程度だと思っていたおにおに。
指揮者の違いも、バイオリニストの違いも、少しずつ見えて来たそうです。
人による違いは、確かに存在する。
同じ曲でも、確かに存在する。


それでも、バッハの平均律クラーヴィアやパルティータは、
グールドだけに預けたい。何年もかけて、何度も聴いて、噛み締めて、記憶に刻んで行きたいと思うような。そんな組み合わせなのだそうです。

彼の生み出す一音のうちの一つでも、一度でいいから自らの指でも響かせてみたい。
良いグランドピアノで弾く気持ちってどんなだろう。
丁寧に一音一音を奏でる気持ちってどんなだろう。
憧れて憧れて、嬉しくて止まない。
グレン・グールドは、おにおにの師匠なんだそうです。
どんなにブレても、ここに帰りたいと思うような、師匠なんだそうです。

30いくつになって、おにおにやっとそういう人を決める気持ちになってきた。
白も黒もグレーもある。
そんな他者への理解と思いやりが自然な日本に生まれ落ちたおにおには、
断定する事が苦手です。好きは言える。でも嫌いは言いたくない。それは、
永遠に本当ではあり得ないから。

それでも、目を閉じて、一小節でも一ページでも、心を奪われてしまうような
曲を弾く人を、好きと断定することに抵抗はないな、と思いました。
グレン・グールド大好きです。写真もDVDもそんなに見た事は無い。聴いている曲もまだ少ない。
でもいいのだそうです。焦る必要は無いのだそうです。
もう、分かっちゃってる事だから。I like him.

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僕の毛は相変わらずふさふさですよ。
朝日には輝く小麦畑のようです。
冬毛に変わる時期で、それはモウモウの毛を落として、
おかーさんを困らせています。

公園に行った写真を載せたかったおにおにですが、
夕方だったのでブレた写真ばかりで、
泣く泣く翌朝のじっとしてるいい子のショットを載せたそうです。

最近すこし、暑いくらいの時間帯もありますけど、
冬は、着実に近づいております。
つむぎおにおにもウハウハの、冬は、ぼくはこんな風にくっつきます。

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あったかいからくっつく。
優しいからくっつく。
柔らかいから気持ちいい。
大好きだって分かってるから、安心。


おにおには最近、車を乗り換えました。
車検のタイミングで、ありがちな流れで。

最初はkemkemの熱いハートに任せるままに助手席ドライブしてたんだけど、
ようやく満足したかな〜、という頃になって、つむぎおにおに
そっと運転席に乗ってみた。

結果、大開眼。中古とはいえ状態の良い車を買ったので、ハンドルもギアもレザーシートも使い心地満点。路面の凹凸を直に受けるハンドルは少し危険だけどその分、運転している感はひとしお。

アクセルを踏んだ瞬間に「イエッサ!」と言わんばかりに発進してくれるので、シートに感じるGが楽しくて仕方が無い。それを楽しめるのは、「まかして」と言わんばかりのブレーキの安心感のおかげ。
いやすごいっす。ミニ。
猛スピードで風を受けているはずなのに、揺れも音も、今まで乗っていたどの車より安定している。

小さくてマニュアル車であればいいか、と思っていた程度の車に対する気持ちが、
あ!っと言う間に変わってしまいました。
あ!っと言う間に惚れてしまった。
そしてどんどん好きになる、仲良くなれる気がする。

車との付き合いは、こうこなくっちゃ〜。
とOptiとつるんでいた頃以来数年ぶりに思いました。
二人きりで出かける事も多いし、いつだって真剣勝負のおつきあいだし、
だからよけいに色々な経験を分かち合う。
車は相方。

MTBのカンタ君とも、色々な道を走りました。
サーフ君に乗っていた頃の、あの上から目線(笑)や、偉くなった気持ちでぶいぶい運転していた楽しさもありました。
先輩からいただいたオプオプは、それは愛されていた車で、さらにかわいらしかった。はじめてのMT車で、ギアをどんどん上げて一緒に町を走り抜けて行く楽しさを共有した。坂道発進だって、エンストだって、大雨だって風だって、それは大事な思い出だらけ。

たぶん、一人で大事な場面に遭遇したり、悲しい気持ちのときも、楽しい気持ちの時も、
一緒に音楽を聴きながら運転したから、車とは仲良くなる深さが違うんじゃないかと思うんですよね。運転だって超真剣ですし。

だから、つむぎおにおににとって車は大事な相方。
新しい子は、どんなだろうね。

また、海や草原に行って、いっぱい一緒に遊ぼうね。
と、おにおには僕の頭や背中をなでながら言います。
がってん承知の助、ですよ。わんわん。
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今年の夏は暑かったですね。

つむぎおにおには、やっとくきまるがくっついて寝てくれる冬が来る、と喜びいっぱいなようです。
ぼくも、あったかいのは好きなので、冬はぴとぴとおにおににくっつきますよ♩
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善光寺のお戒壇めぐりを、前知識ゼロでやってきました。

元来せっかちで説明書きもろくに読まずに
ほいほい歩いて行く傾向があるので、
いやまさかね。。。あんなものが待ってるなんてね。。
普通の日本人並みに神社仏閣をみてきて、
あんなにどえらい驚いた事は一度も無かった。

漆黒の闇。常闇の闇。闇の深淵。

言葉でみても聞いても、以前はどうしても
墨で真っ黒に塗った紙に向かって目を凝らすような気持ちで闇を想像していた。
でも、マジな闇はすごかった。
予備知識無しでいきなり突入した自分たちもすごかった。

きょろきょろしてみたけど、どこにも光が、一点も一筋もない。
目を閉じても開いても同じ。
触れている友達の腕を離したら、あっという間に宇宙に放り出されそうな闇。
半端ない。すごい。

で、これなに?

前に行くとなにかあるの?どれくらい続いてるの?
なんか曲がってない?どこいくわけ、あの音なに、
どうやら前方にずいぶん人が詰まっているらしいけど、だからあの音なに?
ていうか、闇の中で渋滞すんなー!前すすめーぃ!

てな具合で、もう意味がわかりませんでした。
とにかく闇が物珍しくて、なかなか驚きが収まらない。
何をしたら闇と確信できるのか、全部試した感じ。
光を求め過ぎて、諦め過ぎて、なんかもういいや、という境地。

さすがに錠前に触れた時は、前の人たちの話で事情がわかったけど、
やった、触れた♩
って喜んでる余裕なんて無し。とにかく光よー。
おじさん達の「おーやっと光がみえたみえた」という言葉をどれだけ待った事か。
そして薄くぼんやりと見えた光の粉は、かけがえの無いものだってわかったよー。
わかったから。と、最後はもうお戒壇めぐりの本来の意味じゃないところで
修行達成。
45メートルあるらしいですけど、実際は上から声が聞こえた気がしたし、
ずいぶん曲がってる気もして、闇の中って色々なものをかきまぜちゃうんですね。

確かだったのは、

右手に触れるすべすべの木の壁と、
前にいる友人の腕、
後ろからついてくる誰かの鞄。
前の方ではしゃぐおじさんたちと、
前後の人たち同士で「詰まってます、あ、まだです」と言い合う声のみ。

後から知ったのですが、あそこは道場という名がついているそうで。。
あんなとんでもない試練をくぐり抜けなくちゃいけなかったんなら、
もっと事前にここは道場だぜアピールしてくださいよぅ。涙

黙っていたらどんどん暗闇の重圧に身体をつぶされそうになって、
とりあえず左手で色々探ってみたけど右の壁以外の空間には何も無さそう。
そう思って、闇を見つめた瞬間、ものすごい広がりを感じた。
手と足で、触れているものは確かにあるけど、空間がどんどん延長していくんです。
光が闇に向かって手を伸ばすみたいに。
闇は押しつぶしてくるものじゃなくて、遠く広がって行くものだと思った。

悟る、なんておこがましい事は言わないですけど、
なんか、宇宙は自由なんだって、思ったんですよね。
真っ暗闇の中で、自由を得たというか。
どこにどんな絵を描いてもいいんですよ、と言われた気がしたと言うか。
まぁ、光がなかったら、何を作っても描いても見れないなと思った。
そう、見るって、光があるから見れるんだとか、そんな単純な事を、生まれて初めて知ったんですよね。

そして、友達の腕のあったかさ柔らかさから押し寄せてくる大きな安心感とか。
闇の中でいったい何が安心で何が恐怖なのか、興味深い体験でした。
そう、あれ、一人で早朝とか閉館前とかにやる人がいたら、あっぱれだな。
でもまぁ、世の中には闇なんてへとも思わない人もごろごろいるか。

闇が怖い人は、あきらめの境地に至るといいと思いました。
歌う事くらいしかする事無いっす。
沖縄に、着いたとたんに梅雨明け宣言。
いー空、いー海、いー暑さ、でした!

今回の目的地は古宇利島。海が綺麗!というだけでチョイスしたんだけど、、
意外で意外で意外な巡り合わせがたくさんありました。
そのうちの一つは、ピース貝との出会い。
美しい貝殻や、綺麗色の貝殻、人が歩くたびにひっそり貝の中に入りこむ(その姿がばればれな、愛おしい)ヤドカリや、透明なカニたちに混じって、その子は私の目に飛び込んで来てくれました。
最初は疑わしげに、次はそっと指を伸ばして、最後は手にしてみても自信がもてなくて仲間に聞いてみた。

静かな珊瑚の砂浜に、打ち寄せる波の音を耳にしながら、
不思議な貝に出会いました。

Shell seaで買ったシーシーにしたのと同じように、いつも通りに聞いてみる。
「うちに来る(か)?」
いま、この子は家にいます。


ツーリストの気楽さで、どんなに朝早起きしても元気いっぱいで、夜は楽しいガールズトークと心地よい眠りに包まれたり。

昼間はビーチで溶けそうなほど遊んで日に焼ける分、朝と夜はビタミンC接種に女4人で必死になったり。

殺されるんじゃないか?と思われる程強い日差しと暑い熱気に、まだ梅雨に入ったばかりの関東地方からきたひ弱い身体がやられそうで、マジ顔で水分補給したり。

夜も朝もじゃわじゃわ騒ぐ蝉の声と、光の加減で幾重にも色を変えるアクアマリンの海と、遠くに広がり盛り上がり続ける入道雲たちに、心からありがとうを言いたくなったり。

数々の思い出がとても明るいのは、
沖縄のてぃーだのおかげ。
海のおかげ。
がっしりした緑に混ざって、強く咲いているポップカラーな花達のおかげ。
表情に余裕がある、島の人々のおかげ。

てぃ〜だカンカン。
沖縄の夏は、むんむんした暑さに、このカンカンが加わる。
だからこそ、海に飛び込みたくなってしまう。
かき氷が食べたくなってしまう。
ブルーシールのアイスもあっというまに溶けてしまう、本格的な夏が、沖縄に訪れています。
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つむぎっ。
おにおにっ。

4月で、
みんなとお花見楽しいのはいーんやけどね。


暑いんですけど、ここっ。

わんわん。わんわん。
水くれわんわん。
日陰に連れてけわんわん。
ビールと肉ばかりで桜も見ないでわんわん。

パカっと開いた口がかわいくて、つむぎおにおに
いっぱい写真を撮りましたが。
最後にはちゃーんとお水あげて(くっきまるとちゃんと名前が書かれたMy紙コップ)
椅子の下の日陰に入れてあげましたとさ。

 お肉はちゃーんとkemkemがくれましたとさ。

めでたしめでたし。
悲しい漫画を読んで、こらえきれなくて泣く。

昔は、漫画が悲しくて泣いたけれど、

今は、自分の経験とシンクロし悲しくて泣くことがある。



何年も経っているのに、
いま何も悲しいことなど無いのに。

時の流れは、この心奥深くには届かないみたいだ。
時の流れと、記憶が薄まる速度は、決して比例しないみたいだ。
ある記憶は、どんなに時が経っても、どんなに幸せな瞬間でも、
きっかけがあれば簡単に涙を引き起こす。
まるで今その頃にいるみたいに。



遠い涙は、今は流してもせんのない涙。

どこにも行きつく事のない、せんのない涙。


どんなに顔を覆っても、涙はとめどなく流れて、
この悲しみが消える事はないと、思い知らされる。
だから、ともに生きる。
近頃はこういう涙を、否定しない。
受け入れて対峙するわけでもなく、ただ自然に生きている。
まるで季節の贈りものみたいに、春も夏も秋も冬も、
神奈川でも東京でもどこかしこでも。
それでも随分と、久しぶりに。

せんのない涙も、何か意味があり、
無理してとんがって、我慢するものではないと分かってから、
流して流してじっとしている。

心の記憶は、
あの頃のようには、
もう今の私を苦しめる事はないけれど、
あの頃の私を、苦しめ続ける。


心の奥深くの記憶に向かって、涙を流す。
涙よとどけ、
そっと抱きしめてあげる。
今の私が、あの頃の私を。
あの頃の人々を。
もう悲しまないで、良く頑張ったよと。声が届けられたらいいのに。


気持ちのいい夢を見た。
ゴンドラを小さく底を深めにしたような箱舟に乗って、
ヴェネツィアの街を、水路も陸路も滑るように進んでいく。船はもちろん、歩く人と
も互いに避けてすれ違う。
あぁ、何が気持ち良かったのかを、ようやく形になって思いだすことが出来た。
水の上を滑らかに左右に揺れながら進むその感覚が好きなんだ。
時たま、タプっと跳ねる水の音も心地いい。日差しはキラキラと水の上で踊り跳ね、
雨は静かにさらさらと水に溶けていく。
摩擦の無い、浮遊するような感じ。気持ちいい。
もちろんモーターの騒音はあるけど、水の音と混ざり合えば中和されてしまう。

そういえば、ホテルが丁度Y字の水路の角にあって、陽気な歌声と音楽を毎朝耳にし
た。
歌声や音楽は、人の好奇心を誘う。
小さな子供みたいに、ベッドを跳ね降りて窓辺から身を乗り出して見下ろしては通り
過ぎるまで見入った。
ツーリストの朝は、本当に気楽。

今回の旅行で、改心しなくちゃいけないなぁと思った事がひとつある。
想像を遥かに超えて美しく、しかもそれを作った人々の思いがそのまま残っているよ
うな類い稀な街、ヴェネツィアを目の当たりにした時、
アメリカもヨーロッパもアジアも何度か旅行するうちに、(アメリカに至っては散歩
気分で歩いてしまうくらい)
どこも似たり寄ったりなんだろうな、といつの間にか旅行に期待を抱かなくなってい
た自分を反省した。
今回経由したアムステルダムも、空から見下ろした時に愕然とするような景色を見
た。
あれはなんだったんだろうと今でも思う。
世界は、未知の驚きに満ち溢れている。
そして、今回到着した途端にお祭りのどんちゃん騒ぎが真夜中まで続いていたフィレ
ンツェの夜も、あれが金曜だったからなのかメーデー前日だったからなのかも、未だ
分からない。まぁなんであっても、街中人であふれかえっていて、楽しかった。(翌
朝全てのごみ箱、散らばったビンやグラスが路上から全て消えていたのもあっぱれ
だった。フィレンツェはゴミ箱天国なくらい、清潔でゴミ箱には事欠かなかった。さ
すが観光地。これであとトイレ天国になってくれればいう事ないけど、まあそれは
バールに寄れってことなのだろう。エスプレッソ一杯とトイレが相方とのお決まり
コースになってました。(他にもいい方法があったのか?!))

そういう未体験が数々ある事を思い知らされた気分の旅行。
これは、これからも人生楽しいぞ。行ってみなくちゃわからないことだらけだぞ。
偉そうに諦め顔で行ったりしないで、どこでもちゃんと無垢な気持ちで行ってみよ
う。
グエル公園の摩訶不思議で楽しくて笑い出しちゃうような空間、バリ島に飛行機が降り立つ前にみえる神の山の荘厳さ、凍てつく冬のソウルで若者達にまぎれて(私たちもあの頃は若者だったが)飲んだ甘いお茶の芳香、ルツェルンの湖から見た絵本からそのまま出て来ていて、そしてまた帰るんですよ、と言っているみたいな美しい湖畔の風景達、数々の驚きを思い出して、反省。もう二度とどこいっても同じかもなんて思いませーん。

仕事にプライベートに多忙を極めている毎日では、

ツーリストになる楽しみの一つに、一日が全て自分のものになる、ということが欠かせない。

朝、起きても夜まで何もすることが無い。5分も10分も気にならない。

気ままに行ってみたい場所を思い出して、出かける。ちょっとした迷い道も、あっという間に冒険に変わる。


時計なんて、何度みただろう。ずいぶん経った気がして、たまに心配になって見る時に「まだこんなにある!」と喜んだことばかりだ。(または予約済みのディナーの時間に間に合わせるために行動を逆算するとき)

そして少しずつ、一日がこんなに長いことを思い出す。

子どもの頃、世界は無限に長い一日を抱えていると思っていたのに、

社会人になったら、なんて一日は早く、土日はあっという間に終わってしまうことか、と思ったけれど、、

ツーリストになれば思いだす。一日はこんなに長く、親密に、自分の間近に、いつもいてくれること。

密度が濃くて、新鮮で、驚きに満ちた楽しい時間は、長い一日の間に何度も訪れることを。

雪の日の朝、雨の日のお昼過ぎ、風が強い日、耳が痛くなるような寒い曇りの日、湿気のある夕方、うららかな春の真昼、蝉の声に耳がどうかなりそうな夏の午前、日陰のひんやり感、冬の日向での背中の温かさ、星が珍しかった夜のイベント。子どもの頃の数々の神奈川県での記憶達。

それらは何も消えていない、大人になって自らの日常が変わっただけなのだと。

そしてそれを100%満喫して楽しめるのは、自分がこの瞬間に、ツーリストだからだということも、分かっている。

 

そんな気ままな旅行時間を大いに楽しんだのが、シエナでの散歩でした。


フィレンツェからバスで1時間揺られ、着いたところは静かな街並。

ゆるやかに中心のカンポ広場に向かう道が、いくつにも枝分かれしている。

小さな小路は驚くほどに急な勾配で、ヴェネツィアと違いここはバイクと車だらけ。さもありなん。老人にこれはきついだろうと思うほど。


シエナは一言で言うと、音の無い街、の印象でした。

観光客はここもたくさんいます。でも音がしません。全てはこの街を覆い尽くすふるい茶色の石畳や、石壁、屋根屋根に自然に吸い込まれてしまったかのように、足音さえ聞こえない気がする。実際はそんなことなかったのだろうけれど、そんな音の無い世界の印象が否めない、静かで、そして悠久の時の流れに思いを馳せるのには十分なほどに古い、古い古い家並みが視界いっぱいにどこまでも続く。

好奇心にかられて地図も確かめずに小路を抜けると、遠い丘陵地帯まで視界が開けて、ぱっと5月の緑が広がる。古い城壁の一部を目に留めて、往事を想像するのは楽しい。こんなに小さな街、守るのはきっと骨だっただろうに。都市国家が反映の基礎だった時代、この街はピサやフィレンツェとどんな関係をもっていたんだろう。


小鳥は空で歌い、雨上がりの日差しは優しく木々を光らせる。

音の無い、不思議な田舎町。太陽ばかりが降り注ぎ、人がいないのに人気の感じられる石壁の家々。

苔むした石畳の上を、古いアーチ作りのくぐり石壁をくぐって進んでみた。行き止まりに当たっていそいそ引き返す。何度も見たい方向に身体ごと向いては、気ままにぐるぐると回転しながらくねくねした街並を散歩する。

(ヴェネツィアに比べたら全くわかりやすいということが、後になって分かるけれど、この時はすっかり迷路のような街だと感心していた。ヴェネツィアは信じてもらえないかもしれない、と諦めるくらい真剣に誰もが迷う。おそらくツーリストの10人が10人地図無しで目的地には行けないだろう。気軽に小路を曲がり、広場を抜け、目指す場所の方向にいっているつもりなのに、目の前に突然立ちはだかる石壁を目の前にし、また元いた広場に導かれ、愕然とするのだ。方位磁石があれば、あるいはヴェネツィアの街もツーリストでもウマく歩けるのかもしれない。。もちろんさすがに何度も往復すれば慣れますけど)


教会に遭遇しました。


大きめの、シエナのドゥオモ程ゴージャスではない、質素な赤い石壁の。

足取り軽く、開かれた門の内の真っ暗闇と外の明るさとの対象に驚きながら近づいた時に、はっと目を細めた。

漆黒の暗闇の中に、窓の形をしたステンドグラスの光が一つ、浮かんでいる。色とりどりのグラスで描かれた聖人たち。

観光地の教会で、観光客達に奪われてしまいがちな信仰心の重み、静けさと落ち着き、

そういう空気が一瞬目の前を通り過ぎる。

近づくともう一つ、ステンドグラスの窓が現れる。人は見えない、闇の中。まるで宇宙に浮かんでいる光であるかのように、教会の中は、そこだけが夜。見えない宇宙。そこに色とりどりの聖人達だけが浮かび上がっている。近づけば近づく程に、増える光。

あの最初の驚きを、忘れ得ない。

教会の内部は、静謐で広々とした空間。質朴としていて、人気の無い空間。

暗闇の中、目前にそびえるステンドグラスの光が、これほど光らしく見える教会は初めてだった。あとで調べてみたら、サン・フランチェスコ教会のこと。13世紀から15世紀にかけて大きくなって、ロマネスクからゴシックにも変換。


シエナの散歩は、これでおしまい。

フィレンツェやヴェネツィアのように大きな街でもなく、安心する程度にいる観光客にまぎれて、kemkemともよりこの街では親密に互いに寄り添い合って散歩をしていた気がする。

日常や住み慣れた街を離れたつかの間の心細さを分け合うのも、旅の相方とのひとつの経験。

ずんずん歩く。気ままに歩く。振り返って、写真に夢中になる相方を待つ。

何かを話しかけて、何かを話し合って、ふと二人で黙って景色に魅せられる。

このまま、時がとまってしまってもいいのに、と、考えたりするのもこんな親密で特別な時にだけ現れる感情。

あらゆることから肩の力を解き放って、心地よい緊張感とともに散歩する。

ツーリストになるのは、楽しいです。

フィレンツェの青い空が観てみたい、と言い出したのはわたし。

灰色のビルや看板、そこかしこにはびこる電柱や電線の延びた頭上の空ではなく、
かといって海や高原のそれでもなくて、
石壁とオレンジ色の屋根の遥か高くに見える青。

似たような色は、日本の秋にもかつてあった気がする。校庭や帰り道からみた、あっと声を上げて驚くような青い空。でも、もっとさらっと乾燥した空気の中で、ひやりとした風と日中の鋭い日差しの中で、
広がる濃い青を観てみたかった。

季節やタイミングもあるのか、思った以上の青ではなかったけれど、
それでも十分にフィレンツェの街の光を楽しむ事が出来たのは、
ドゥオモに登れたからではないかと思う。

フィレンツェの石壁の町並みは、三階建てであっても日本のマンションの6階分はありそうな高さの建物で(見積もり過ぎかな?)、そして例えば広場に出たとしても、そこかしこにある彫刻や、市庁舎、ドゥオモ、教会、美術館等々すべての建物は立派にどーんと高くそびえているので、割と空が遠い。あ、遠い。という感じ。

でも、サンタ・マリア・デルフィオーレ大聖堂の中で落ち着いた暗さにまず慣れ、暗くて狭めの(思ったより広いし明るいけど)階段をどんどん登り続けて、大聖堂内部の天井画の周りをぐるりと回りながら(絶対に絶対に、下は見ない、ぞっっ。と誓ったけど、見ちゃった。でもあまりに聖堂の規模がおおきに大きすぎて、人の大きさと柱や天井のアーチの大きさとの差が激しすぎて、まったく日常の比例じゃない。非現実的な感覚に陥る。巨人の家みたいだ。おかげで高所であることを忘れてしまいそうになる。)、
急な階段をミニスカートの中を気にしいしい登りきって、あっと視界に入った空を見た瞬間に、フィレンツェの光、青、オレンジ色と薄茶色の街並、それを囲む緑の丘陵と木々が、すべて突然親密なものとなって、私を包んだ気がした。風が渡る。太陽が射す。

ドゥオモに登るというのは、こういうことなのかも知れない、と思った。
登るのだ。ただもう、このドゥオモを見上げた人は、ただひたすらに。

10分以上かけて登り、空と街と囲む丘陵を手にする。

ブルネレスキに感謝だ。
よく、設計してくれたと思う。
過去の人々の偉業に、たくさんの賞賛を送れる。こんな風に歴史のある街にくると、繰り返し繰り返し過去の人々に話しかける機会に恵まれる。
ヴァザーリの天井画も。シニョーリア広場にいるダビデやコジモ1世の彫刻も。ウフィッツィのラッファエッロやミケランジェロの芸術達とも。
レオナルド・ダヴィンチの受胎告知にいたっては、彼はぜっったいにおたくだ、(いい意味でですよ。おたく好きですから)と言いたくなるくらい、精巧。真ん中からみて、徐々に右に移動して行くと、キャー不思議!ほんとに山に視線が行くのです。それも一ミリの乱れも無くぴったりと。そんな気がするのです。
天使の絵も美しい横顔でした。まるで生きているみたいに。ダヴィンチの絵は、理数系そのものな気がした。ミラノにも足を運んで、最後の晩餐を見るとしたら、全く同じ期待をして絵に臨むと思う。理数学的にわくわくするのだ、彼の絵を見る時は。
フィレンツェはルネサンスの話になっちゃうと止まりません。ウフィツィにあるメディチ家のコジモとロレンツォも銅像を見てとても心が躍ったし、サンタ・クローチェ教会のマキァヴェッリのお墓を見ても、サヴォナローラの慰霊碑をみても、15世紀のフィレンツェを思い起こして心が揺れた。ミケランジェロのお墓を見るに至っては、ウフィッツィの「聖家族」が実は大好きな絵の一つであることもあり、ぜひ!お話をしてみたかったー。システィーナの天井画やダビデ、昼や夜を作っている時の姿をぜひこの目で見てみたかったー、と過去の人々をうらやましく思うばかりでした。ミケランジェロにはヒーローの素質があると思う。作るもの作るものみなかっこいい。ダヴィンチはおたく。どちらもかっこいい、もちろん。

もう一つ、忘れられないのは、ボッティチェッリの「春」。
予想以上に小さく、予想以上に親密で、静かな色で包まれている。
それが目の前に、数々の絵画とともに、ぽんっと飾られていた。
早朝のウフィッツィに、しかもチケットを事前予約して行くのは100%お勧めする。
おかげで、焦る事無く、ただツーリストの自分の有り余る時間をマイペースにかけて、絵と接する事が出来た。
はじめはゆっくりと、もう一度ちらっと。次はちゃんと。
少しずつ絵と自分の間の距離を縮めて、心や目をならせた頃に、驚きはやってきた。
絵にゆっくりと近づいて行く、ディテールが、目に焼き付いて来る。
足下にちらばる花達が、神々のまとう衣装の細かな線が、視界に入ってくる。

もう夢中だった。
ボッティチェリのプリマヴェーラに、に息をのんだ。
この感情は、きっとこれからも私をとりこにする。

ありがとう。
嬉しい。

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